商品詳細
大刀剣市 カタログ掲載品 |
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刀 (無銘) 包永 (附)天和元年本阿弥光常代金子二十枚折紙・本阿弥琳雅留帳写(小田原藩大保家伝来) (古刀上々作)(大業物) Katana [Tegai Kanenaga]
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第23回重要刀剣 NBTHK Jyuyo Paper No.23
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No. F00671
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(附) 研出鮫鞘肥後打刀拵
天和元年本阿弥光常代金子二十枚折紙・本阿弥琳雅留帳写 白鞘 田野辺探山先生鞘書 金着二重肥後鎺 |
7,500,000 | ||||||||||||||
刃長 : 68.8cm(2尺2寸7分) 反り : 1.7cm(5分半) 元幅 : 2.85cm 先幅 : 1.95cm 元重 : 0.75cm 先重 : 0.4cm |
登録証: 大阪府教育委員会昭和48年12月12日 |
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鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会重要刀剣指定書 昭和50年7月1日 |
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説明: 大和国手掻派は輾害とも書き、東大寺の西の正面である輾害門の外辺に一派が居住して鍛刀したためにこの名があるという。手掻派の祖は包永で、銘鑑では鎌倉時代後期の正応頃としているが、包永二代の子或は弟子と伝えている包清に嘉暦四年紀の短刀が違存していることや、包永の作域及び造込みなどの点からして、さらに時代の遡るものとも考えられる。大和物の中でも包永の在銘の太刀は比較的多く現存しており、それらは茎先に二字銘を遺す磨上の状態のものが殆どである。姿や地刃・帽子などは大和物一般の作風に共通するものであるが、此の工には他派よりも特に沸づくことがあり、つぶらで輝きのある美しい沸が見られ、地刃共によく冴えるのが見どころである。 大磨上無銘で包永と伝えている刀である。鎬が高く、板目に柾ごころの肌が交じり、直刃調にほつれ、喰違風の刃交じり湯走りかかり、沸が強く、帽子は掃かけ焼詰めごころとなり、大和物、特に包永の作風をよく表したもので包永の所伝は認められる。 本作は、承応頃(1652-1654)に小田原藩3代藩主の大久保加賀守忠朝より本阿弥家に来て十二枚の折紙が発行され、さらに天和元年には土佐藩の支藩である中村藩主の山内大膳亮豊明より来て代付けが増して二十枚の折紙が発行されている。大正元年(1912)には本阿弥琳雅が留帳の写しをとり、棟などにある幾つか切り込みなどを詳細に記している。 現状では2尺2寸7分(68.8cm)となり、折紙の長さの2尺3寸8分(72.1cm)と約3.5cmの差異がみとめられ、付帯する研出鮫鞘肥後打刀拵が制作された大正頃にわずかに刃長を詰めたものと推察される。
折紙「和州包永 正真長サ弐尺参寸八分余 磨上無銘也 代金子弐拾枚 天和元年酉 極月三日 本阿(花押)(光常)」 留帳写「和州包永折紙留帳の写し(刀剣台帳の書き写し) 右大久保加賀守(大久保加賀守忠朝、小田原3代藩主)より来り 承応(1652-1654)之拾二枚折紙あり右天和元年(1681)之留帳に記載有之候付証明致し候也 |
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備考: 古刀 上々作 大業物
田野辺探山先生鞘書 「第二十三回重要刀剣 和州手掻包永 大磨上無銘而天和元年本阿弥光常代金子弐拾枚折紙が添えらる折紙の刃長は本作より壱寸壱分半程(約3.5cm)長きと雖も大正元年本阿弥琳雅の留帳写にある切込の記載や本作の茎の上部の錆色が浅く大正頃の製作と推定される拵が附帯したりて此時期に茎を詰めた可能性が高く更に上身が紛れも無く同工の特色を備うる㕜から本作と合致する者なるべし 刃長 弐尺二寸七分有之 歳乙巳卯月 探山識(花押) 腰反猶深目につき身幅尋常鎬筋高く中鋒の姿態を見せ地鉄は板目に流柾交じり地沸厚く温潤なりて刃文は直調浅く湾れ小互乃目を交へ喰違あり匂深で発色強き円らな沸が豊かで匂口明るく冴え小丸風に掃掛ける帽子に結ぶなど正に同工の有銘作と繋がる健体屈指の優品也留帳写に拠り正応年間・大久保忠明の需で光温が弐拾折紙を出し降りて山内豊明の需で附帯の折紙を出したるが知らる」 |









