山田浅右衛門の先祖は、家康の愛妾で松平忠輝を生んだ茶阿の局の実家であると伝えられている。忠輝が父家康の不興を買った折に、忠輝の重臣だった山田吉辰は切腹。以来、初代浅右衛門山田貞武に至るまで、浪人として流浪していたらしい。

 

 

「大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代」より

 

  名前・読み 和暦 西暦
初代 山田 貞武 (さだたけ) 明暦3-享保1 1657-1716

山野勘十郎に師事。初め浅右衛門を名乗る。享年六十歳。法名は孤峻院冬雲常雪居士。

二代 山田 吉時 (よしとき) ?-延享1 ?-1744

貞武の嫡子。この浅右衛門の時代に、将軍家御様御用を独占的に務める体制が確立する。ヒゲが濃かったことから”ヒゲ浅右衛門”の異名をとる。『万日記』(山田氏記録)の寛政五年(1793)四月十八日に、「今夜先祖ひけ浅右衛門様五十回遠忌夜(逮夜)・・・・」と見え、事実上の初代として敬われていた様子がうかがえる。慈仙院即往直心居士。

三代 山田 吉継 (よしつぐ) 宝永2-明和7 1705-1770

俳号を恵竹庵巌松。俳号を持った最初の浅右衛門。宝暦七年(1757)七月、隣家の火災で屋敷を類焼後、同十三年に幕府から御救金を拝借する。享年六十六歳。恵空院竹庵源松居士。

四代 山田 吉寛 (よしひろ) 元文3-天明6 1738-1786

俳号を鉄丸舎寛子。晩年は病弱で御用差し支え、弟子の須藤五太夫睦済(伊予今治藩士)が幕府の許可を得て「手代」(代役)を務めた。享年四十九歳。清徳院鉄巌宗心居士。

五代 山田 吉睦 (よしむつ) 明和4-文政6 1767-1823

俳号は凌宵堂寛洲および宝雪庵寥和。四代目には後を継ぐ男子がなく、山田家では四代目の没後、喪を秘して紀州藩士瀬戸甚右衛門の次男(源蔵)を養子に迎えた。ところが源蔵は五代目を継がずに隠居。かねてより試し斬りのすぐれた技量を認められていた吉睦を新たに養子に迎えることにした。

吉睦は奥州湯長屋藩(藩主内藤家)の藩士三輪源八の次男で、母は三代目浅右衛門(吉継)の女ナヲ。はじめ文三郎と称していたが養子入りするに当たって源五郎と改め、のちに浅右衛門ではなく朝右衛門と称した。享年五十七歳。英照院仁岳大道居士。

六代 山田 吉昌 (よしまさ) 天明7-嘉永5 1787-1852

俳名は亀峰館屋松。五代目は最初、奥州盛岡藩士小松原甚兵衛の子清五郎を養子に迎えたが、のちに離縁。山田氏記録「覚帳」によれば、寛政四年(1792)八月十九日、千住で加賀藩主前田家から依頼された刀・脇差の試し斬りを行った際に、清五郎は「立なからくわへきせるにて見候」(煙管をくわえながら試し斬りの様子を見ていた)という大変な不行儀を働いたとある。離縁の原因であろう。

代わって清五郎の弟の権之助が養子に入ったが、文化九年(1812)に病没。

次いで門人の中から但馬豊岡藩士青木彦右衛門の次男(吉寧)を養子にし、名を源五郎と改めさせたが、これも文政三年(1820)に病死。あとに幸という女子(五代目にとっては孫娘)が残された。

四人目に養子となった源六吉貞は、素性経歴は定かではないが、山田家の後継者として立派に家業を務めた。しかし離縁になったため(理由は不明)、六代目に数えていない。

そして”五人目の正直”となったのが、五代目と同じく三輪源八の子(養子)の源八郎吉昌である。吉昌の実父は下級幕臣で紅葉山御霊屋掃除役を務めていた遠藤次郎兵衛という者。六代目も山田家の門人で試し斬りの修行を積んでいた。後を継ぐと朝右衛門と称し、嘉永元年(1848)七月十八日、六十二歳の誕生日に剃髪して松翁と改めた。新宿区須賀町の勝興寺には、このとき松翁が寄進した一対の大きな水桶が現存する。川路聖謨と親交があったのは、この朝右衛門(松翁)である。享年六十六歳。万昌院輪山松翁居士。

七代 山田 吉利 (よしとし) 文化10-明治17 1813-1884

吉年とも。俳号は芝生園和水。備中新見藩士で山田家の門人だった後藤五左衛門の次男五三郎。五三郎もまた門人の一人で、吉寧の遺児で六代目の養女となった幸と結婚して家督を相続、朝右衛門と改めた(ただし勝興寺にある六代目夫妻の合葬墓の左側面に「第七世 山田浅右衛門吉年」と刻まれており、浅右衛門の通称も用いていたらしい)。橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らの首を斬ったのはこの七代目である。

明治二年(1869)隠居。『明治天皇紀』の明治六年(1873)五月二日の記事に「東京府等外一等山田吉豊の父山田和水、所有の古剣景光作一口を献れるを以て、金五百円を賜う」と見え、七代目が山田家所持の名刀を献上した事実が確認される。明治十七年没。享年七十二歳。天寿院慶心和水居士。

八代 山田 吉豊 (よしとよ) 天保10-明治15 1839-1882

明治になって浅雄とも名乗った。俳号は亀宝館柊哉。七代目と六代目の養女幸の間の子。明治三年(1870)四月十五日の「弁官達」で刑死者の試し斬り及び人胆等の採取が禁じられ(「従前刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ノ利鈍ヲ試来候。右ハ残酷ノ事ニ候間厳禁取締可致。其他人胆或ハ霊天蓋陰茎等密売致ス哉ニ候(中略)是又厳禁取締可致候事」)、ために山田家は試し斬りと製薬業のいずれもが行えなくなった。八代目は「東京府囚獄掛斬役」すなわち首斬り役として出仕。明治五年のいわゆる壬申戸籍には「平民」と明記されている。

明治七年二月十二日に斬役の職務を解かれ、明治十二年十月十六日に隠居。明治十五年八月十三日に父(七代目)に先立って死亡。享年四十四歳。性善院秀様吉豊居士。

九代(閏八代) 山田 吉亮 (よしふさ) 安政1-明治44 1854-1911

昭和十三年(1938)に祥雲寺に建てられた「浅右衛門之碑」には以上八代目までしか数えられていないが、八代目の弟で、七代目の三男吉亮もまた、”最後の浅右衛門”として、ここで触れなければならない。

少年の頃から試し斬りの技に長けていた吉亮は、明治三年に雲井龍雄、同十一年に島田一郎ら大久保利通殺害犯の首を斬り、そして翌十二年には市ヶ谷の監獄で高橋お伝の切り手を務めるなど、実質的には八代目吉豊に代わる働きをした。このため永島孫一は吉亮を九代目に数え、福永酔剣は「閏八代」としている。

明治十四年八月二十二日、市ヶ谷監獄署書記拝命。翌十五年十二月十五日、依願免職。書記に異動し、さらに職を退いたのは、明治十三年に制定された刑法(同十五年一月一日施行)で「死刑ハ絞首ス」と定められたためであろう。”斬”(首斬り)そのものが行われなくなった結果、浅右衛門はついにその歴史的使命を終えたのである。退職後は俳句を詠み、あるいは刀剣鑑定をして過ごしたという。俳号は松風軒誠雅など。明治四十四年没。享年五十八歳。

なお八代目吉豊の長男松次郎(吉顕 文久3-昭和4 1863-1929)が浅右衛門を襲名しているが、もはや彼を”人斬り浅右衛門”の九代目に数えることはできない。

試し斬りを行う截断個所の名称も時代により、同じ名称でも場所が異なるので注意が必要となる。また、部位によって骨の多寡などにより難易度に差がある。山野加右衛門永久、山野堪十郎久英らが活躍した江戸時代中期頃は重ね胴など斬れ味を重視したのに対し、幕末になると堅物試しに重点が置かれるなどの特長がある。

 

「首切り浅右衛門刀剣押形」より

 

新しい名称(山田流) 古い名称
試し部位の名称
小袈裟
大袈裟
太々 摺付け
雁金 脇毛
乳割り 一の胴
脇毛 二の胴
摺付け 三の胴
一の胴 本胴
二の胴 八枚目
三の胴 車先
車先 間の車
両車 諸車

 

 

 

難易 名称
試し部位の難易度
太々
  両車
  雁金
  乳割り
  脇毛
  摺付け
  車先
  一の胴
  二の胴
三の胴

 

   (参考) 首切り浅右衛門刀剣押形 福永酔剣 : 著

             大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代 氏家幹人 : 著

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