大刀剣市 カタログ掲載品
備前長船祐光

特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

特別保存刀装 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

No.F00062

(附)  刀箱-杉山壽之進筆

黒呂色印籠刻塗鞘呑込み合口造短刀拵

白鞘  金着二重ハバキ

     参 考 品

刃長 : 33.7cm  (1尺1寸1分) 反り : 0.4cm  (1分)

元幅 : 2.5cm 元重 : 0.7cm

登録証

長崎県教育委員会

昭和26年12月02日

: 備前国 (岡山県-南東部)

時代 : 室町時代前期 宝徳三年 1451年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

特別保存刀剣鑑定書

平成10年04月07日

特別保存刀装鑑定書

平成10年04月10日

備州長船祐光

宝徳三年八月日

形状

刃文

 

帽子

平造、庵棟、身幅尋常にて、重ね厚く、寸延び、わずかに反りつく。

板目よく錬れて、杢交じり、処々ながれごころに、地沸つき、地景入り、乱映りよくたつ。

互の目に腰開き互の目・小互の目交じり、足入り、匂い本位に小沸よくつき、金筋入り、砂流しかかり、明るく冴える。

乱れ込み先尖って深く返り、先掃きかける。

ほとんど生ぶ(約数ミリのわずかな区送り)、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔二中一埋。

目貫

小柄

黒呂色印籠刻塗鞘呑込み合口造短刀拵 総長 : 51.2cm

菊花図、赤銅磨地、容彫、金ウットリ色絵、銀露象嵌

枝菊図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、無銘 総長 : 9.6cm

枝菊図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、無銘 総長 : 21.4cm

白出鮫 長さ:13.6cm

説明

 六郎左衛門尉祐光は、小反利光の子で、右京亮勝光、左京進宗光兄弟の父であり、それは御物東博銘刀押形の「文明九年祐光次男左京進宗光」の作により明らかである。永享から文明頃にかけて活躍し、同時期には「寛正則光」で名高い五郎左衛門則光とは作風、銘字が似ており、兄弟ではなくとも同じ長船の一家内にあったと思われる。作風は則光と比して優しいものが多い。則光・祐光は応永備前から末備前の中間に位置する長船正系の良工である。

宝徳三年は応永元年より数えて57年後であり、同じ平造りで身幅の割に寸の延びた短刀姿でも若干の相違があらわれてくる。地鉄は板目に杢を交え映りが立ち、腰開き互の目などは応永備前の作風を残しつつも、やや寸が短く、反りがある、重ねがより厚めになるところなどは次の時代である室町中期の応仁・文明頃への過渡期的なものといえる。

 上研磨され、地鉄には一点の傷気もなく、刃中には金筋がおどり、帽子は乱れ込み尖って力強く、総体に健全で覇気が感じられる備前物の魅力を遺憾なく発揮した優品である。

附帯する黒呂色印籠刻塗鞘呑込み合口造短刀拵も三所物を菊図でまとめた上品な短刀拵であり、特に目貫は金のウットリ色絵の素晴らしいものである。

 本刀の来歴は、石田三成公の三男:石田重成公の御遺物と伝え、石田三成の三男:石田重成と三女:辰姫の血筋をひく陸奥国弘前藩津軽家の家老:杉山家に伝来する。石田重成は豊臣秀頼に小姓として仕えていた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父:石田三成をはじめとする西軍が東軍に大敗し、居城:佐和山城も落城したことを知ると、同じく小姓として仕えていた津軽信建(津軽為信の長男)の助けで、若狭より海路で陸奥国津軽に逃れた。その後は杉山源吾を名乗り、津軽家の保護のもと深味村に隠棲する。また、慶長15年、弘前藩二代藩主:津軽信枚(津軽為信の三男、津軽信建の弟)に辰姫(石田三成の三女、石田重成の妹、秀吉の正室:高台院の養女)が嫁いでいる。石田重成(杉山源吾)の長男で二代:杉山吉成は、従妹にあたる津軽信枚・辰姫夫妻の娘:子々(ねね)を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。本刀も藩政時代は杉山家に長く伝え、明治40年、杉山家13代:杉山壽之進により刀箱が新調されている。同じく杉山家に伝来する石田三成の最古の肖像画も、同時期に箱を新調しており「御先祖御像 一幅」「明治四十年七月箱新調 杉山壽之進」の墨書がある。この肖像画も、初代:石田重成(杉山源吾)の頃より杉山家に伝わったもので、本刀とともに同家の重宝であったのであろう。その後、杉山家の縁戚であった初代長崎県知事:杉山宗次郎の蔵品となり、刀箱と慶応3年の新刀銘盡大全に「備州長船祐光」の茎の押形が貼られて「杉山宗次郎之」の落款がある。その為、登録証は長崎県の昭和26年登録となっている。なお、刀箱ついては近年になってから青森県内で発見され、本刀の来歴が明らかとなった。

<石田重成(杉山源吾)について>

 

石田 重成(いしだ しげなり、1589年(天正17年)?−1641年(寛永18年)?)は、石田三成の次男。母は宇多頼忠の娘・皎月院。兄に石田重家、妹に辰姫(津軽信枚室)。官位は隼人正。名は重成のほかに、杉山源吾某、杉山仁兵衛俊成。豊臣成範。妻は朽木氏の娘、後妻は柘植氏の娘、子に杉山吉成、石田掃部、杉山嘉兵衛成保。杉山家初代。

豊臣秀頼に小姓として仕えていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父をはじめとする西軍が東軍に大敗し居城佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。

その後は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村に隠棲する。慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で没したという説も有力である。三男の成保系『杉山系図』には藤堂高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。長男・吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

石田三成が豊臣を名乗ることを許されていたという記録は無いが、宗徳寺(青森県弘前市)にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれているといわれている。墓石には「杉山源吾豊臣成範」と刻まれている。(江戸時代に豊臣氏を正式に名乗っていたのは北政所の実家木下家のみである)。

(Wikipediaより)

<辰姫について>

 

辰姫(たつひめ、天正20年(1592年)? - 元和9年(1623年))は石田三成の三女で弘前藩2代藩主津軽信枚の室。子に津軽信義。辰子、大舘御前、荘厳院とも。

慶長3年(1598年)ごろ、豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父・三成が徳川家康に敗れる。その直後に豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって津軽に逃された兄・重成とともに行動したとも、引き続き高台院の保護下にあり後年高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたとも言われる(孝蔵主は三成の娘で辰姫の姉である某(岡重政室)を通じて石田家と姻戚関係にある)。

慶長15年(1610年)ごろ、信枚に嫁ぐ。2人の仲は良好であったと思われる。しかし慶長18年(1613年)、夷狄の備えに本州最北の津軽を重視して徳川に近しい勢力を作るためか、信枚が帰依していた天海が江戸幕府体制下で津軽氏の地位を固めてやろうとの思惑で家康に推挽したからか、 家康の養女・満天姫(家康の異父弟松平康元の娘)を信枚に降嫁させた。津軽家は徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された。

その後も信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)1月1日、信枚の長男・平蔵(のちの信義)が誕生する。この折に乳母として登用されたのが、のちに「船橋騒動」の火種となる旧宇喜多秀家家臣の船橋半左衛門の妻である。

元和9年(1623年)、大舘で死去。享年32。墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺。幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、信枚の死後藩主を継いだ。

(Wikipediaより)

<杉山吉成について>

 

杉山 吉成(すぎやま よしなり)は、石田三成の次男石田重成の長男。八兵衛。杉山家二代。

父の重成は、豊臣秀頼に小姓として仕えていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父三成率いる西軍が東軍に大敗し、石田氏の居城であった佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。

同地で吉成は、信建の弟である津軽信枚(弘前藩主)の娘を妻とし、累進して寛永21年(1644年)には1,300石知行、御証人役加判となる(杉山貞五郎の由緒書)。

寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いで、幕府からの要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒賞を授与された。(津軽一統志)。子孫は、弘前藩重臣として存続した。

(Wikipediaより)

<杉山貞五郎について>

 

杉山貞五郎(すぎやま さだごろう) 豊臣成範。杉山家十一代。

津軽信順に天保2年(1831)6月4日に1000石で仕える。同10年に馬廻役、同14年に学問所稽古館の総司を歴任し、弘化2年(1845)9月4日に没す。

<杉山壽之進について>

 

杉山壽之進(すぎやま としのしん) 杉山家十三代。

弘前藩の藩校:稽古館を前身とする東奥義塾の塾長を務める。当時の教え子に杉山宗次郎がいる。

<杉山宗次郎について>

 

杉山 宗次郎(すぎやま そうじろう、1891年(明治24年)5月1日 - 1962年(昭和37年)12月27日)は、日本の昭和時代中期の内務官僚、政治家。公選初代の長崎県知事である。

愛知県出身。杉山壽之進が塾長を務める東奥義塾で学ぶ。1946年(昭和21年)1月25日、大阪府土木部長より第37代長崎県知事(官選)に就任した。翌1947年(昭和22年)3月14日、公選として行われる長崎県知事選挙への出馬準備のため辞任。第1回の統一地方選挙として行われた同選挙で当選し4月16日に第39代・公選初代の長崎県知事に就任した。1951年(昭和26年)4月の県知事選挙では再選を目指したが、元衆議院議員・長崎民友新聞社長の西岡竹次郎に敗れた。1955年(昭和30年)4月の知事選にも出馬、現職の西岡と再度対決したが及ばず、知事への復帰は成らなかった。

石田三成次男の重成子孫と伝わる弘前藩津軽家の家老杉山家の遠い縁戚で、同家に伝わっていた短刀の「備前長船祐光」が杉山の旧蔵品として伝わっている。

(Wikipediaより)

備考

刀箱-杉山壽之進筆

「豊臣成範様御遺物 備州長船祐光 宝徳三年八月日 反一分 長一尺一寸一分 御柄鮫白蝋色印籠刻鞘 杉山壽之進(落款) 明治四十年六月吉日」 落款は「杉山壽之進之印」

杉山宗次郎落款 「杉山宗次郎之」

「豊臣成範」は初代:石田重成(杉山源吾)と11代:杉山貞五郎が名乗っています。

 

中古刀 中上作。

良業物。

 

人間国宝(重要無形文化財保持者):藤代松雄先生 最上研磨品。

刀身、刀装のそれぞれに特別保存鑑定書が附帯します。

備前長船祐光1
備前長船祐光2
備前長船祐光3
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備前長船祐光12

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