商品詳細

脇指 信濃守国広

慶長十二二二月日(新刀最上作)(大業物)

Wakizashi [Shinanonokami Kunihiro]
第46回重要刀剣
NBTHK Jyuyo Paper No.46
No. F00307
白鞘 金着二重鎺
本間薫山先生・小野博師鞘書
6,800,000

刃長 : 30.65cm(1尺0寸1分) 反り : 極く僅か

元幅 : 2.7cm 元重 : 0.7cm

登録証:

東京都教育委員会
昭和43年12月12日
国: 山城国 (京都府-南部)
時代: 江戸時代初期 慶長14年 1609年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
重要刀剣指定書
平成12年10月5日
銘: 信濃守国広
慶長十二二二月日
形状 : 平造、三ツ棟、身幅広く、寸延びて、重ね厚く、反り極く僅か。
鍛 : 板目に杢・大板目ごころ交じり、肌立ってザングリとした独特の肌合となり、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、区下より斜めに水影が立つ。
刃文 : 中直刃、匂深く、沸よくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、砂流し細かにかかり、小さく金筋入り、匂口沈みごころとなる。
帽子 : 直ぐに小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : (なし)
茎 : 生ぶ、先刃上がりごころの栗尻、鑢目大筋違(上の切り鑢は後補)、目釘孔一、指表目釘孔の下棟寄りに細めの鏨でやや大振りの五字銘があり、裏に同じく年紀がある。

説明:

 国広は、もと九州日向の飫肥の城主であった伊東家に仕えた武士で、同家が没落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各地で作刀した。慶長4年以後は、京都一条堀川に定住し、多くの優れた弟子を育て、慶長19年に没したといわれる。彼の作風は概ね二様に大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものが見られ、定住後の作(慶長打)は、それらのものと作風を異にして、相州上工に範をとったと思われるものが多い。

 この脇指は、鍛えは板目に杢・大板目ごころが交じり、肌立ってザングリとした堀川物特有の肌合いに、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入っている。刃文は中直刃を焼いて、沸がよくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、細かに金筋・砂流し等がかかるなどの出来口を示している。幅広・寸延びで重ねが厚く、反りの殆どない平身の造込みから、建武前後(鎌倉時代最末期乃至南北朝最初期)の寸延びの短刀姿を想わせるものがあり、上記の直刃の作柄と併せて、或は来国光あたりを国広流に再現したものであろうか。同工の作には前述の如く、相州上工に範をとったものが多いが、その中にあって珍しい作例である。常々の此の手の作域よりも匂深で、刃中も働いており、総じて古色の趣を醸し出している。また区下より斜めに水影が立っている状や、焼刃に荒めの沸がむらづき、匂口が沈みごころとなるなどには、此の工の持味をあらわしている。彼の写し物は、単なる模作的なものではなく、その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作するために、このような写し物に於ても彼の個性が表出されるのであろうか。短刀姿までも忠実に写した国広の優品で、頑健な姿も好ましく、一段と迫力を増している。

 なお慶長14年紀は、同作中でも僅少で、脇指(平造)・短刀に数口経眼するのみで、刀は未見であり、前述の作柄と併せて、国広を研究する上で資料的にも貴重である。

備考:

新刀最上作

大業物

 

本間薫山先生鞘書

「信濃守國廣 慶長十二二 刃長一尺一分 昭和甲子(59)年文月於久我山房 薫山識(花押)」

小野博師

「平成壬午(14)葉月吉日研磨之 小野博(花押)」

小野博師 最上研磨

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