商品詳細

刀 応鮎川盛善好固山宗次作之

天保九年戊戌年四月廿三日

於武州千住試之両車土壇拂 (新々刀上々作)

Katana [Koyama Munetsugu]
第50回重要刀剣
NBTHK Jyuyo Paper No.50
No. F00297
白鞘 金着二重鎺

刃長 : 76.15cm(尺寸分) 反り : 1.7cm(分) 

元幅 : 3.3cm 先幅 : 2.3cm 元重 : 0.75cm 先重 : 0.55cm 

 

登録証:

福岡県教育委員会
昭和26年4月16日
国: 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)
時代: 江戸時代後期 天保9年 1838年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
重要刀剣指定書
平成16年10月15日
銘: 応鮎川盛善好固山宗次作之
天保九年戊戌年四月廿三日
於武州千住試之両車土壇拂
形状 : 鎬造、庵棟、身幅広く、やや長寸、元先の幅差幾分つき、身幅の割に鎬幅狭く、鎬高め、重ね厚く、踏張りごころがあり、反り浅めにつき、中鋒延びる。
鍛 : 板目つみ、処々柾がかり、肌立ちごころに、地沸つき、地景入る。
刃文 : 小のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、小沸よくつき、金筋入り、砂流しかかる。
帽子 : 直ぐに小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : 表裏に棒樋を掻き流す。
茎 : 生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔一。

説明:

固山宗次は、享保3年、奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号し、兄に宗平・宗俊がいる。宗次の師は加藤綱英と伝えられているが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封後は、江戸に住して桑名藩工として作刀した。その居住地は麻布永坂という。弘化2年に備前介を受領している。宗次の作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘っており、その遺例も非常に多く、作風は一貫して備前伝であり、よくつんだ鍛えに、匂い勝ち丁子乱れを焼いて成功している。

この刀は、小板目肌のよくつんだ鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、刃文は丁子乱れに蛙子風の丁子・小丁子・互の目・小互の目・尖り刃・角がかった刃等多種の刃が交じり、賑やかとなり、焼に高低が見られ、足よく入り、匂勝ち小沸がつき、細かに砂流しがかかり、処々金筋長く入り、匂口が明るい出来口をあらわしている。常々の同工のこの種の作域に比して、多種の刃を交えて賑やかであり、且つ焼に高低があり、変化に富んでいる。また帽子も一層力強く、興趣が感ぜられる。同作中の優品で、宗次の特色が存分に表示された一口であり、加えて幅広で中鋒が延び、やや長寸で、重ね厚の体配は豪壮で、しかも健体である。

 

新々刀百余年の歴史の中で斬れ味において天保の宗次ほど優れた刀工は誰一人としていない。それは華麗な濤欄刃の流行した時代から復古刀・勤皇刀へと続く歴史の中で、天保という時代背景が大きく影響している。この頃、世の中武士のみならず町人・農民に至るまで剣術が大流行した時代であった。日本刀が実戦に使用された文久・元治・慶応のわずか20~30年前である。多くの武士達は自分の帯刀として、斬れ味が抜群で折れず加えて使い易い刀剣を求めた。当時、江戸においてその需要に応えた刀工が宗次であった。

この刀が製作された天保9年は宗次36才という男盛りの年令であり技倆的にも研究熱心な時期で様々な作風に挑戦している。ちなみにこの年の有名刀工の年令は大慶直胤60才、細川正義53才、加藤綱俊42才、山浦真雄35才、次郎太郎直勝34才、左行秀27才、山浦清麿26才、栗原信秀24才などである。

天保5~6年頃から要求に応える刀を製作する為に宗次は当時の試刀家の山田家をはじめとする多くの人達の意見を参考にしながら製作したことが考えられる。この頃の刀の中心には数多くの截断銘が遺されている。山田家には山田吉利・五三郎・源蔵、他には伊賀乗重・桜井代五郎・後藤新太郎などがあげられる。試斬りの場所は、於千住・於牢屋敷が多い。さらに、太々土壇拂・ハチマキ土壇拂・雁金土壇拂・三胴両車拂などを添えたものが多い。この様に試刀家の指導のもとにいかに斬れ味を良くするか、刀の肉置やバランスを考慮しながら作刀を続けたことが考えられる。令和の現在、居合いの名人達に聞いても宗次の刀のバランスの良さは天下逸品だと賞賛される。天保頃の宗次の作風は晩年の作風と異なり刃文は地鉄においても研鑽されていることが窺える。

最も賞賛されるのが一文字写しである。焼幅に高低のある華やかな丁子刃にて、匂いやや深く小沸がつき、刃中に金筋・砂流しなり匂口が最も明るく冴えたものである。他には、宗次の実質の師と云われる綱俊風の丁子乱れ、さらに応永備前風のものなどがある。

宗次の地鉄は小板目肌のよく約んだ美しい地鉄に地沸の細かについたものが一般的であるが、天保の頃のものは板目肌がやや顕著に現われ、地景が盛んに入り、地沸のついた強靱な肌合いの魅力的なものが多い。

この様に天保頃の宗次は当時、江戸において天下一と称され、直胤・正義・清麿でさえも及ばなかったと考えられる。当時、宗次の刀を古河候(土井家)、小諸城主:牧野康哉候・宇和島候(伊達家)などの諸大名が注文しており、他に金工界の重鎮:後藤一乗の短刀や、名力士:稲妻雷五郎との合作などもみられ、そのことを物語っている。

私の修行中に師匠の柴田光男先生から「天保の宗次が出たら、黙って買っても良い」と教えていただきました。それ程までにこの頃の作品は傑作品が多いとのことでした。

この刀の詳細については、重刀図譜に詳しいですが、魅力あふれる名刀をご紹介させていただきます。

備考:

新々刀 上々作

詳細写真1
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