商品詳細
脇指 醇志奉李門公命加藤綱俊是俊造之 Katana [Chounsai Tsunatoshi and Koretoshi]
|
|||||||||||||
特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper
|
No. A00675
|
||||||||||||
白鞘 銀無垢一重鎺
本阿弥光遜先生鞘書 |
850,000 | ||||||||||||
刃長 : 46.6cm(1尺5寸4分弱) 反り : 1.2cm(4分) 元幅 : 2.8cm 先幅 : 2.0cm 元重 : 0.65cm 先重 : 0.4cm |
登録証: 福岡県教育委員会令和5年1月12日 |
||||||||||||
|
鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会特別保存刀剣鑑定書 令和5年5月31日 |
||||||||||||
|
|||||||||||||
|
|||||||||||||
説明: 初代:長運斎綱俊は寛政9年に出羽国米沢の生まれで、本名を加藤八郎といい、父に加藤国秀、兄に加藤綱英がおり、長運斎、のち長寿斎と号した。米沢藩上杉家のお抱え鍛冶として、江戸に出て麻布に住し、文久2年12月5日、66歳で没した。作風は、丁子に互の目を交えた備前伝を最も得意とし、他に、濤欄刃や直刃がある。 二代:綱俊は綱俊の次男で、安政2年頃に長運斎の号を父から譲られ初代は長寿斎と号し、また文久3年の父歿後には二代目綱俊を襲名した。初代・二代の父子合作も比較的に多くみられ、初代の晩年にはその代作も為すという。是俊は初代:綱俊の高弟であった青龍軒盛俊の門で修行し、周防国岩国から江戸に戻った。 銘文にある「醇志(じゅんし)」とは、純粋で高潔な志、または、誠実な意思や心情を意味する。李門公とは、日向国(宮崎県)飫肥藩の13代藩主の伊東祐相公の号である。 「奉李門公命加藤綱俊是俊造之」とあるので、伊東祐相(李門)公より命じられて、長運斎綱俊・是俊親子が本作を入念に製作されたもので、製作と同時期に山田浅右衛門8代吉豊(源蔵)による試斬も行われた念の入れようである。安政4年は綱俊が61歳、是俊が20歳にあたる。
<伊東祐相 李門> 第11代藩主・伊東祐民の長男として江戸に生まれる。父・祐民は文化9年6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父・祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳で家督を継いだ。 (Wikipediaより)
<山田浅右衛門 八代吉豊> 明治になって浅雄とも名乗った。俳号は亀宝館柊哉。七代目と六代目の養女幸の間の子。明治三年(1870)四月十五日の「弁官達」で刑死者の試し斬り及び人胆等の採取が禁じられ(「従前刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ノ利鈍ヲ試来候。右ハ残酷ノ事ニ候間厳禁取締可致。其他人胆或ハ霊天蓋陰茎等密売致ス哉ニ候(中略)是又厳禁取締可致候事」)、ために山田家は試し斬りと製薬業のいずれもが行えなくなった。八代目は「東京府囚獄掛斬役」すなわち首斬り役として出仕。明治五年のいわゆる壬申戸籍には「平民」と明記されている。 明治七年二月十二日に斬役の職務を解かれ、明治十二年十月十六日に隠居。明治十五年八月十三日に父(七代目)に先立って死亡。享年四十四歳。性善院秀様吉豊居士。 |
|||||||||||||
備考: 長運斎綱俊は新々刀最上作 長運斎是俊(ニ代綱俊)は新々刀中上作
本阿弥光遜先生鞘書 「江戸長運斎綱俊是俊 長壱尺五寸四分半弱之 昭和壬辰(27)極月 本阿弥光遜(花押)」
古研ぎのために、全体に長い縦ヒケや下半に細かい横ヒケがみられ、部分的に小錆があります。 指裏の中程からその下に錆の痕跡があります。
|




