商品詳細

刀 栗原筑前守平朝臣信秀

明治二年八月日 (新刀上々作)

Katana [Kurihara Nobuhide]
特別保存刀剣
NBTHK Tokubetsu Hozon Paper
No. A00605
白鞘 金着二重鎺
栗原信秀の研究 所載

刃長 : 65.2cm(2尺1寸5分半) 反り : 1.2cm(4分) 

元幅 : 2.9cm 先幅 : 2.2cm 元重 : 0.7cm 先重 : 0.45cm 

登録証:

山形県教育委員会
昭和26年6月27日
国: 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)
時代: 近代 明治2年 1869年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
特別保存刀剣鑑定書
平成27年2月5日
銘: 栗原筑前守平朝臣信秀
明治二年八月日
形状 : 鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常に、反りやや浅くつき、中鋒延びる。
鍛 : 板目つみ、杢交じり、処々柾がかり、地沸厚くつき、地景よく入る。
刃文 : 互の目乱れに、角ばる刃・尖りごころの刃、小互の目など交じり、足長くさかんに入り、沸厚くつき、金筋・砂流し長めにかかり、匂口明るい。
帽子 : 乱込み、小丸に返り、先さかんに掃きかける。
彫物 : 表裏に二筋樋を丸留し、その下に表は「日本心を人とは々」の文字を陰刻、裏に山桜花を肉彫する。
茎 : 生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一。

説明:

 栗原信秀は、文化12年、越後国西蒲原郡月潟村に生まれた。文政12年、京都へ上り鏡師となったが、嘉永初年、江戸に出て、山浦清麿門に入り刀鍛冶となった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは、嘉永5年紀であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われる。独立して間もない嘉永6年には、相模国浦賀で作刀した、いわゆる「浦賀打」が違存する。元治元年7月、第一回長州征伐が行われ、彼は幕命を受け大坂に赴き、兵器補給の役を務めている。大坂での作刀は元治元年8月より慶応3年正月までの約2年半に亘っている。慶応元年5月、筑前守を受領した。後に江戸に戻り、さらに明治8年、越後三条に帰り、同10年には弥彦神社の御神鏡の制作を行っている。明治13年1月25日、東京本郷元町の養子:信親宅に於て、66歳で歿している。彼の技倆は山浦清麿一門中で最も卓越しており、師:清麿に迫る出来映えのものがある。

 明治2年(1869)、信秀55歳の作で、同年8月2日には明治天皇より忠臣であった楠木正成公を祀る湊川神社を創建するにあたり、下賜する太刀の製作を命じられる栄誉を得る。太刀 栗原信秀 明治三年十二月日 刃長2尺2寸1分(66.3cm)で湊川神社 宝物館に遺されており、「筑前守」「平姓」は省かれている。

 本作は刃長2尺1寸5分半(65.2cm)となり明治以降の陸軍のサーベル式の寸法となっており、地鉄は、板目つみ、杢交じり、処々柾がかり、地沸厚くつき、地景よく入る。刃文は、互の目乱れに、角ばる刃・尖りごころの刃、小互の目など交じり、足長くさかんに入り、沸厚くつき、金筋・砂流し長めにかかり、匂口明るいといった作風をみせている。彫物は「日本心を人とは々」の文字を陰刻、裏に山桜花を肉彫し、本居宣長の詠んだ和歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」をあらわしており、当時の世相をよく反映している。栗原信秀の研究にも所載する信秀の優品の一振となっている。

 

備考:

新々刀 上々作

指表の中程やや下の鎬筋にわずかに薄錆がみられます。

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