商品詳細

短刀 瑞泉源秀明(堀井俊秀)

昭和八年五月吉日 遠州応小栗氏需

Tanto [Horii Hideaki]
保存刀剣
NBTHK Hozon Paper
No. A00597
白鞘 銀無垢地上貝金着二重鎺 480,000

刃長 : 28.1cm(9寸3分弱) 反り : 殆どなし

元幅 : 27.5cm 元重 : 0.6cm

登録証:

静岡県教育委員会
昭和28年9月11日
国: 北海道
時代: 現代 昭和8年 1933年

鑑定書:

保存刀剣鑑定書
令和3年2月25日
銘: 瑞泉源秀明
昭和八年五月吉日 遠州応小栗氏需
形状 : 平造、三ツ棟、身幅尋常、重ね厚め、寸延びて、反り殆どなし。
鍛 : 板目、杢交じり、処々柾がかり、肌目がたち、地沸厚くつき、地景繁く入る。
刃文 : 小のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、沸強くつき、刃肌にからみ、金筋入り、砂流が幾重にもさかんにかかる。
帽子 : 乱込みに小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : 表に三鈷柄剣、裏に護摩箸を肉彫する。
茎 : 生ぶ、先浅い栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明:

堀井俊秀は、明治19年、滋賀県滋賀郡下坂本村で徳田広吉の三男として生まれ、本名を徳田兼吉という。明治34年、二代:堀井胤明門人である松田胤勝より農鍛冶を修行。明治37年、19才の時に二代:堀井胤明に入門し、鍛刀を学び、明治44年、その勤勉さを見込まれ、女婿となり、「兼明」と初銘を銘す。大正2年、刀剣保存会(羽沢文庫)より水心子正秀の「秀」の一字を贈られ「秀明」と改め、また、昭和9年、皇太子御生誕となり、「明仁親王」と命名されると「明」の字を用いることは憚り多いことと考え「俊秀」と改める。大正7年、北海道室蘭の日本製鋼所室蘭製作所・瑞泉鍛刀所に入社し、鍛刀研究に従事する。大正12年、二代:堀井胤明亡き後は、堀井家三代目として瑞泉鍛刀所を継ぎ、優れた技術と卓越した人格者であったことから一門に繁栄をもたらす。昭和17年、宮内省より元帥刀十振の製作を命ぜられ、死を賭して謹作するも完成半ばにして、翌昭和18年、58才で永眠する。法名を龍渕軒瑞泉俊禿日兼居士、墓は大津市石山寺辺町西蓮寺にある。

日本刀展覧会へ自作の刀剣を出品し、総理、陸軍、文部省の各大臣賞を受けるなど、多くの栄誉を得る。昭和2年頃より日本海海戦の旗艦:三笠の砲身を材料として製作した記念刀などもある。また、俊秀の作品は、刃味が優れていることは当時から有名となっている。

本作は、見事な地鉄に俊秀の得意とした丁子刃を焼いており、当時の刀工中第一等の堀井俊秀の技量の高さが窺い知れる優品である。製作された皇紀2600年は昭和15年にあたり、この頃には紀元2600年を祝い橿原神宮・宮崎神宮・湊川神社などに寄進する多数の奉納刀を製作している。

本作は、形状は、平造、三ツ棟、身幅尋常、重ね厚め、寸延びて、反り殆どなし。鍛えは、板目、杢交じり、処々柾がかり、肌目がたち、地沸厚くつき、地景繁く入り、刃文は、小のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、沸強くつき、刃肌にからみ、金筋入り、砂流が幾重にもさかんにかかるといった相州伝の強調された作域をしめしており、相州上工のなかでも貞宗あたりに私淑したものと推察される。なお銘文ある注文主の遠州(遠江国:静岡県)の小栗氏については、詳細不明ながら静岡県出身の軍人であろうか。

備考:

古研ぎのため、全体に地刃、棟などに薄錆がみられます。

白鞘に染みがみられます。

詳細写真1
詳細写真2
詳細写真3