片山一文字 則房

文部省 重要美術品

Agency for Cultural Affairs Art treasures

No.F00211

小笠原子爵家伝来

徳川実紀 寛政重修諸家譜 藤代名刀図鑑 所載

(附) 牡丹鳳凰蒔絵変塗鞘打刀拵

白鞘  本間薫山先生鞘書 金着二重ハバキ

      参 考 品

刃長 : 68.5cm  (2尺2寸6分) 反り : 1.8cm  (6分)

元幅 : 2.4cm 先幅 : 1.7cm 元重 : 0.5cm 先重 : 0.45cm

登録証

東京都教育委員会

昭和26年02月26日

: 備前国 (岡山県-南東部)

時代 : 鎌倉時代中期 建長頃 1249-1255年頃

鑑定書

文部省

重要美術品認定書

昭和09年12月20日

則房

形状

 

刃文

 

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常、平肉豊かにして、磨上ながらも腰反りつき、中鋒となる。

板目肌、杢交じり、総じて練れてつみ、処々柾ごころとなり、地沸つき、地景入り、乱れ映り立つ。

丁子主調に小丁字・互の目・小互の目など交じり、中程などには一段と房の大きな大丁子を加え、飛焼をさかんに交え、足入り、総体に華やかに乱れ、匂主調に小沸つき、砂流しかかり、金筋入り、匂口明るく冴える。

直ぐに小丸に短く返る。

磨上(約10cm)、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔二、

 

 

縁頭

 

 

目貫

小柄

栗形

小尻

牡丹鳳凰蒔絵変塗鞘打刀拵 総長 : 94.5cm

秋の七草図、角切木瓜形、四分一磨地、鋤出彫、象嵌色絵、鋤残耳、両櫃孔、

銘:古風軒春光(江戸後期)

高さ:6.5cm 幅:5.8cm 厚さ:0.45cm

金鍍金柄板着銀線巻柄前。長さ:22.2cm

秋草に水辺の蝶図、四分一磨地、高彫、色絵、

銘:松風舎成寿作(松崎氏 江戸麻布古川住 慶応・明治)

高さ:3.9cm 幅:2.2cm

草花に雉図、金地容彫、銀赤銅素銅象嵌色絵

雌雄鳳凰図、赤銅魚子地、高彫、象嵌色絵 縦:9.8cm 横:1.4cm

雌雄鳳凰図、赤銅魚子地、高彫、象嵌色絵 縦:21.4cm 横:1.3cm

秋草に水辺の蝶図、四分一磨地、高彫、色絵、無銘:松風舎成寿

秋草に水辺の蝶図、四分一磨地、高彫、色絵、無銘:松風舎成寿

説明

 則房は助真・吉房と並んで日本刀の最も華やかな時代である鎌倉時代中期の一文字派を代表する刀工である。則房は、のち福岡より片山に移住して作刀したと伝え、世上、片山一文字と呼称される。従来、片山なる場所については備中国とするのが通説であったが、近年、備前福岡近在の片山ではないかとする説が浮上し、有力視されている。現存する有銘の作は太刀に限られているが、古来、薙刀の名手と伝え、無銘作にそれと伝えるものが多く遺存している。

 一般に則房の見処として挙げられるのは、まず地肌が明るく冴えてつよいかね味を示す点で、とくに地沸がよくついた手には地映りがさまで目立たぬものもある。また、同じ華やかな丁子の刃文でも、助真・吉房に比しては乱れが小模様となる傾向があり、刃中の足が細かく、乱れが逆ごころを帯びるところに特色がある。

 本作は4分弱(約10cm)の磨上にて、元来の姿は2尺6寸(78.5cm)と推定される。身幅・重ね共に尋常にして、腰反りとなり、中鋒に結ぶ優美な太刀姿を呈し、平肉が豊かであり健全であることが窺い知れる。地鉄は、板目がよく練れてつみ、潤いがあり、杢を交え、わずかに柾がかり、乱れ映りがよく立つ。、刃文は、丁子を主調に、小丁字・互の目・小互の目、少しく尖り刃など交え、中程から下半にかけては房の大きな大丁子をよく交え、飛焼をさかんに交え、足入り、華やかな丁字乱れを形成する。常々の則房の作風は、総じて逆がかるもの、小模様となるものを多く経眼するが、本作には逆がかった態はみとめられず、大丁子がいくつも入った一文字派らしい華やかな丁子乱れとなり、地刃が明るく冴えわたるところに則房の特色が窺える。則房の在銘品のうち国の指定を受けているものは国宝:1、重要文化財:0、重要美術品:6となっている。国宝の一振は同作中の最高傑作との呼び声が高いが、本作も焼きが高く、丁子の房が大きく、華やかに乱れている作風や健全さからして、それに次ぐであろう一振といえる。附帯する牡丹鳳凰蒔絵変塗鞘打刀拵は幕末期に制作されたもので、鞘・金具ともに花鳥で華やかにまとめられたもので、特に柄前が秀逸である。

 尚、本刀の来歴は、慶安2年(1649)4月17日、三代将軍:徳川家光公より小笠原壱岐守忠知公(忠知系小笠原家初代)が拝領した品で、爾来、藩政時代は長く同家に伝来した。昭和9年(1934)12月20日、小笠原長生翁(忠知系小笠原家14代)の名で重要美術品の認定を受けている。約300年に渡り同家の重宝として伝えられた。徳川実紀・寛政重修諸家譜にも所載する由緒正しい品で、如何にも大名道具といった風格を感じさせる。

備考

古刀 上々作。

 

本間薫山先生鞘書

「片山一文字則房 貞応比 磨上刃長二尺二寸六分 小笠原家伝来 重要美術品 平成元年五月於久我山房 八十五才 薫山誌(花押)」

「自三代将軍家光小笠原壱岐守忠知拝領之」

 

徳川実紀 第三編 597頁

「(慶安2年4月17日)此時本城御使小笠原壱岐守忠知参謁す。則房の御刀をたまはり。すぐに帰府のいとま給う」

 

寛政重修諸家譜 第3巻 404頁

「慶安二年四月大猷院殿(3代将軍:徳川家光)の御使いにさされてかの地にいたり、帰府のいとま申のとき、則房の御刀を賜う。」

 

藤代名刀図鑑 第27集2

 

藤代松雄先生 最上研磨品

 

※ 重要美術品等認定物件は,文化財保護法及び関係法令により,原則として海外への輸出(持ち出し)が禁止されています。

<小笠原忠知公について>

 

小笠原 忠知(おがさわら ただとも、慶長4年7月21日(1599年9月10日)- 寛文3年7月29日(1663年8月31日))は、豊後杵築藩主、のち三河吉田藩の初代藩主。忠知系小笠原家初代。 信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。母は登久姫(松平信康の娘)。正室は多賀光定の娘。子は長矩(長男)、長敦(次男)、長定(三男)、長秋(四男)。官位は従五位下、壱岐守。幼名は虎松丸。 寛永2年(1625年)に書院番頭、翌年12月に大番頭、寛永9年(1632年)4月には奏者番となった。同年9月、兄の小笠原忠真が豊前小倉藩主になったとき、杵築に4万石を与えられ大名に列した。以後、竹中重義改易時の府内藩在番、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功を挙げた。藩政においても植林政策に功を挙げている。正保2年(1645年)7月14日、5,000石加増の上で三河吉田に加増移封された。三河吉田藩主時代、豊橋向山の大池を郡代長谷川太郎左衛門に掘削させ、この大池より水を引いて吉田城の惣濠(外堀)を水堀にした。その水は堀を通り、豊橋吉田方地区の灌漑用にも用いたと言う。 寛文3年(1663年)7月29日、65歳で死去し、跡を長男・長矩が継いだ。法号は一峰定水天真院。墓所は豊橋市の臨済寺。

(Wikipediaより)

<小笠原長生翁について>

 

佐賀県出身の海軍軍人。海軍中将 正二位 勲一等 功四級 子爵。幼名は賢之進、号を鐵鸚と称した。 小笠原長行(藩主長昌の子で、世子の身分で幕政に参画し、老中格となった第二次長州征伐の指揮官)の長男。唐津小笠原家の最後の藩主で事実上、最後の「殿様」として唐津に尽くした。 明治27、28年日清戦争に巡洋艦高千穂分隊長として参戦した。彼は文筆に優れ、戦後この時の様子をまとめた『海戦日録』によって才を高く評価され、『能島流海賊古法』『日本帝国海上権力史講義』など水軍に関する著述が豊富にある。明治40年(1907)、軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得ることになり、その才を認められ、明治44年(1911)には軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となり、院長乃木大将のもとで役を務めた。明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。大正3年(1914)には東宮御学問所の設置にあたり、皇太子(昭和天皇)の教育にもあたった。 長生は、東郷平八郎を神格化するのに功績があった人物で、東郷平八郎の掛け軸によく箱書きをしている。「長生書」の下に、白文の「長生之印」、朱文の「鐵鸚」の落款印が押されている。

(Wikipediaより)

片山一文字 則房1
片山一文字 則房2
片山一文字 則房3
片山一文字 則房4
片山一文字 則房5
片山一文字 則房6
片山一文字 則房7
片山一文字 則房8
片山一文字 則房9
片山一文字 則房12
片山一文字 則房13
片山一文字 則房14
片山一文字 則房15
片山一文字 則房16
片山一文字 則房17
片山一文字 則房18
片山一文字 則房19

刀剣や刀の販売なら日本刀販売専門店つるぎの屋のTOPページに戻る