志賀関兼延

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00320

(附) 徳川将軍家 古鞘 蔵番:百七

皇室・将軍家・大名家刀剣目録 福永酔剣:著 所載

白鞘  金着二重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 67.5cm  (2尺2寸3分弱) 反り : 1.0cm  (3分)

元幅 : 2.9cm 先幅 : 1.9cm 元重 : 0.7cm 先重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

昭和38年08月15日

: 尾張国 (愛知県-西部)

時代 : 室町時代中期 明応頃 1492-1500年頃

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成22年03月19日

兼延(志賀関)

形状

 

刃文

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常に、鎬筋高く、元先の幅差ややつき、反り浅く、中鋒となる。

板目つみ、総じて柾がかり、肌立ちごころに、地沸つき、地景入り、白け映りたつ。

浅い小のたれを主調に、少しく尖りごころの小互の目交じり、足入り、匂深く、小沸細かによくつき、金筋入り、砂流し細かにかかる。

横手下よりやや刃幅を増し、直ぐ調にに小丸に返り、先掃きかける。

生ぶ、先刃上がり栗尻、鑢目逆鷹の刃、目釘孔一。

説明

 兼延は銘鑑に直江派として応安、善定派として康正などがみられるが、本作は志賀に住した兼延で、この族を志賀関とも山田関とも呼んでいる。志賀、及び山田は現在の名古屋市北区の志賀町とその北辺の山田町で、かつての西春日井郡山田荘であるという。この派には兼延をはじめ、国次、延次などがいるが、最も多くの作品を残しているのが兼延で、まま延次の作も見る。兼延は明応三年紀のものが最も古い作例としてみられ、銘鑑に拠れば、以後室町最末期まで数代続いたようである。兼延の作風は、互の目を主調に尖り刃を交えた美濃風のもの、直刃や直刃に腰刃を焼いたもの、また、地色黒く、沸づき、皆焼状となった宇多風のものなどがみられる。

 銘振りにおける「魚兼」の「ウ」の右肩が丸みを帯びてふくらんだ字形や、茎棟の丸い形状、寸法が2尺2寸前後のやや詰まっている点などから、数代いる兼延のなかでも、明応頃の初代と鑑せられる。地鉄は、板目が総じて流れて柾がかり、肌立ちごころに,白け映りが淡くたつ。刃文は小のたれを主調に尖りごころの小互の目をすこしく交え、匂深く、小沸よくつき、金筋入り、砂流し細かにかかる。

 本刀の伝来は、附帯するお家流で誌された徳川将軍家古鞘と「皇室・将軍家・大名家刀剣目録」によれば六代将軍:徳川家宣(文昭院)公の差料であるという。鞘書には「御陣刀」とあり、家宣公が陣刀に用いたものであることがわかる。陣刀(じんとう)とは、江戸期になってから軍学者が唱えたもので、出陣の際に甲冑の上に帯びる刀のことで、陣太刀ともいう。甲冑を着けてからは、長い刀は抜きにくいので2尺2〜3寸(66.7〜69.7cm)までの長さとされた。なお、拵については「御拵、御目貫色絵御紋三双、御小柄、笄色絵御紋三双、裏哺、御鐔鉄丸」と記載があるが、残念ながら現在は附帯していない。家宣公が没した正徳2年(1712)以後も200年以上の長きにわたり徳川将軍家に伝来し、昭和13年(1938)、旧日本陸軍の希望により、徳川家家令を務めた木原清を介して譲渡された。

備考

末古刀 上作。

 

上研磨済み。新規白鞘・ハバキ

 

徳川将軍家伝来 六代将軍:徳川家宣(文昭院)公 差料

「文昭院様御差 年号月日無し 関兼延御陣刀 無代 長二尺二寸三分

(和紙に)代金拾五枚」

「百七」

 

皇室・将軍家・大名家刀剣目録 福永酔剣:著 所載

御代々様御差御道具

「一三 関兼延 御陣刀、銘有、長二尺三寸(約67.6cm)代金拾五枚。

年月日無之。御拵、御目貫色絵御紋三双、御小柄、笄色絵御紋三双、裏哺、御鐔鉄丸。

昭和十三年八月廿四日、軍人会館の希望に対し、御譲渡に相成。

木原清(印) 入江幹一郎(印)」 

<徳川家宣公について>

 

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。

寛文2年4月25日(1662年6月11日)、徳川綱重の長男として、江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。生母は寛文4年(1664年)に死去している。

9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて綱豊と名乗った。延宝6年(1678年)10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・順性院に育てられた。

延宝8年(1680年)、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟である上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。

綱吉にも世嗣がいなかったが、綱吉の娘婿の紀州藩主徳川綱教も後継候補だったため、綱教の死後、将軍世嗣として「家宣」と改名して江戸城西の丸に入ったのは宝永元年12月5日(1704年12月31日)、家宣が43歳の時だった。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。

宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房・新井白石らを登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去した。享年51(満50歳没)。跡を子の家継が継いだ。法名は文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺。

 

(Wikipediaより)

<木原清について>

 

1876年(明治9年)4月25日 - 1940年(昭和15年)9月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。旧幕臣・木原白照の長男として生れる。東京府立一中卒業を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業。 1904年(明治37年)4月、陸士教官となり、近衛師団参謀を経て、1909年(明治42年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第49連隊付に発令。1912年(大正元年)8月、陸軍運輸部基隆支部長に就任し、参謀本部員に異動。1915年(大正4年)8月、歩兵中佐に進級。1916年(大正5年)11月、歩兵第77連隊付となり、1917年(大正6年)7月からイギリス軍に従軍。1918年(大正7年)7月、歩兵大佐に昇進。同年8月、参謀本部課長に転じ、1922年(大正11年)12月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長となった。 1923年(大正12年)8月、参謀本部第3部長に就任し、1927年(昭和2年)7月、陸軍中将に進み運輸部長となる。1930年(昭和5年)8月、第12師団長に親補され、東京警備司令官に転じ、1933年(昭和8年)3月に予備役編入となった。その後、南満州鉄道顧問、徳川家家令を務めた。

 

(Wikipediaより)

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