金子堅太郎

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00272

白鞘  銀着一重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 62.8cm  (2尺0寸7分強) 反り : 2.2cm  (6分強)

元幅 : 2.35cm 先幅 : 1.6cm 元重 : 0.65cm 先重 : 0.45cm

登録証

岐阜県教育委員会

平成22年12月09日

: 東京都

時代 : 近代 明治38年 1905年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成23年06月21日

帝室御刀工菅原包則七十六歳謹作

明治三十八年三月吉日以古刀鍛造

贈呈金子男爵為日露戦役紀念作之

形状

刃文

帽子

鎬造、庵棟、身幅やや細く、重ね尋常に、浅く反りつき、中鋒となる。

板目つみ、処々柾がかり、地沸つき、地景入る。

中直刃、少しく小足入り、匂深く、小沸つく。

直ぐに小丸に返り、先掃きかける。

生ぶ、先栗尻、鑢目切、目釘孔一。

説明

 宮本能登守包則は、天保元年8月25日、伯耆国武田村大柿(現:鳥取県-倉吉市大柿)の造り酒屋を営む旧家に生まれ、宮本志賀彦という。嘉永4年、22才で刀工を志して、備前長船横山祐包の門人となり、備前伝の鍛刀を学ぶ。安政4年、因幡藩倉吉の家老:荒尾志摩の抱工となり、さらに文久3年、京都有栖川熾仁親王の信任を得て、孝明天皇の御剣を鍛造し、慶応2年37才の時、能登守を受領した。明治19年、同郷の因幡の刀工である日置仁平兼次と共に、伊勢神宮の宝剣・鉾・鏃など多数を精鍛してその大業を果たし、さらに明治39年4月に月山貞一と共に帝室技芸員の栄職につき、専ら皇室の刀剣類を謹鍛した。「菅原包則」「宮本能登守包則」「能登守菅原包則」「帝室御刀工」「帝室技芸員菅原包則」などの作銘があり、因幡鳥取、伯耆倉吉、京都(銘は皇都と切る)、東京など、各地の地名を添えたものがあり、大正7年89才の生年切銘もあって、大正15年10月24日97才の高齢で没した。墓は当店の近く染井霊園(東京都豊島区駒込)にある。

 本作の銘文にある「金子男爵」とは、金子堅太郎を意味する。日露戦争において面識のあった米国のセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領との人脈を活かし、外交面から日露戦争、及び、その和平交渉に尽力した。渡米は明治37年2月から38年10月に及んでおり、本作は明治38年3月に日露戦役紀念として功績のあった金子堅太郎に贈られたものと推察され、歴史を感じさせる一振である。

備考

帝室技芸員

新々刀 上作

 

研磨済み 新規白鞘作製

<金子堅太郎>

 

金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日(1853年3月13日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し位階は従一位大勲位伯爵。慶應義塾夜間法律科(後の専修学校講師)、日本法律学校(現日本大学)初代校長、二松學舍専門学校(二松學舍大学)舎長。明治33年に男爵に叙爵、のちに、明治40年:子爵、昭和13年:伯爵となる。

伊藤博文の側近として、伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。 日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。また、日米友好のために尽力し、「日米同志会」の会長となる。 日本法律学校(日本大学の前身)初代校長を務め、専修大学(当時の専修学校)創立に携わった。目賀田種太郎や相馬永胤と時を同じくアメリカに留学し、ハーバード大学ロースクールで法律を学び、帰国後、東京帝国大学の初代行政法講座の初代担当者となる。 枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。

※ 詳細ついては、Wikipedia 【金子堅太郎】 を参考ください。

金子堅太郎1
金子堅太郎2
金子堅太郎3
金子堅太郎4
金子堅太郎5

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