羽山円真

特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

No. A00089

白鞘  金着二重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 68.2cm  (2尺2寸5分弱) 反り : 1.6cm  (5分半)

元幅 : 3.1cm 先幅 : 2.1cm 元重 : 0.7cm 先重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

昭和31年08月10日

: 東京都

時代 : 明治時代 明治38年 1905年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

特別保存刀剣鑑定書

平成27年02月05日

一 浄雲斎羽山円真造之

明治三十八年六月日(花押)

為倉田七郎君

形状

 

刃文

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常にして、腰反りつき、均整のとれた美しい太刀姿とを呈し、中鋒。

小板目肌よくつみ、無地風の肌合いとなり、地沸つく、地鉄冴える。。

焼頭が揃いごころに、頭の丸い互の目を連れて焼き、尖り刃など少しく交じり、足よく入り、匂主調に小沸細かにつき、ささやかな砂流しかかり、匂口明るい。

直ぐに小丸に短く返る。

生ぶ、目釘孔一、先栗尻、雉子股形、鑢目大筋違。

説明

羽山円真は、弘化2年に生まれ、本名を鈴木正寛、豊橋藩士にして、江戸下谷谷中に住す。名工:山浦清麿の高弟のひとりである鈴木正雄に入門し、浄雲斎と号した。大村益次郎の佩刀を造ったといわれている。明治30年に、伏見宮貞愛親王より小烏丸模造を拝命した後、古剣の模造を得意とした。大正9年2月14日没、享年75。

明治38年5月27-28日、対馬東沖を戦場として、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊の間で日本海海戦が行われた。日本艦隊の司令官:東郷平八郎が採用した丁子戦法などにより、海戦史上まれな一方的な勝利となった。この刀は、同年6月に製作されており、後の海軍大佐:倉田七郎が海軍兵学校時代に、日本海軍の勝利を喜び、それを記念して羽山円真に製作を依頼したものと推察される。

茎の形状は雉子股形、銘は佩表に切られており、腰反りのついた優美な姿から太刀として造られている。銘文に見られる「一」の文字は、備前一文字の古作を意識したものであろう。師匠である鈴木正雄も同門の栗原信秀などに比較すれば、やや刃の出入りが少なく、互の目が直ぐ調に連れたものが多い。本作も、頭の丸い互の目を連れて焼いており、師匠の鈴木正雄の作風をよく踏襲している。しかし、さすがに名工:山浦清麿の一門であり、その匂口の明るさと、細かな刃中の働きが特筆される地刃の冴えた優品である。

また、日露戦争は約100年前であり、資料的にも貴重な歴史を感じさせる一振りといえる。

 

余談ながら、東郷平八郎が連合艦隊の旗艦:三笠の艦橋で指揮したとされる重要文化財:(額銘)吉房の太刀は東郷神社にいまも遺されており、「華やかな日本刀-備前一文字展」に出品されている。

<倉田七郎について>

 

日本海軍-大佐。福岡県出身。明治39年11月19日、第34期海軍兵学校卒業。昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時には、連合艦隊-第26掃海隊指令として、海軍歴代指揮官名簿にその名がある。

一方、昭和8年7月、荒木貞夫:陸軍大臣は、有事に際した軍刀整備のために刀工集団 (財)日本刀鍛錬会を東京:九段の靖国神社境内に組織した。現在では、この刀工集団により造刀された日本刀を「靖国刀」、それに従事した刀匠たちを「靖国刀匠」と呼ばれている。代表的刀工に宮口靖広、梶山靖徳池田靖光らがいる。

倉田七郎は、(財)日本刀鍛錬会の創立より深く関わり、その主事になっている。(財)日本刀鍛錬会審査員として、「靖国刀」の品質を厳しく管理する。

その著書に、「日本刀の研究」がある。

戦時中の刀剣界に尽力した功労者の一人である。

 

備考

新々刀 上々作。

羽山円真1
羽山円真2
羽山円真3

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