圓龍子国秀

特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

No.A00179

白鞘  金着二重ハバキ

佐藤寒山先生鞘書

     売 約 済

刃長 : 75.4cm  (2尺4寸8分半) 反り : 2.1cm  (7分)

元幅 : 3.0cm 先幅 : 2.1cm 元重 : 0.8cm 先重 : 0.65cm

登録証

栃木県教育委員会

昭和40年10月21日

: 相模国 (神奈川県-中部・西部)

時代 : 江戸時代後期 文久元年 1861年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

特別保存刀剣鑑定書

平成16年12月27日

相州鎌倉住立花国秀作

文久元年八月日

形状

 

刃文

 

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅・尋常に、重ね厚く、先反りつき、中鋒延びごころとなる。

板目に、小目を頻りに交え、刃寄りなど総体に柾交じり、肌目がたち、地沸つき、地景太く入り、鉄色黒味がかる。

浅い小のたれ調に互の目・小互の目・尖り刃・小丁子風の刃など様々な刃が交じり、複雑に乱れ、足・葉よく入り、総体にやや小模様となり、小沸よくつき、砂流しさかんにかかり、刃縁に打ちのけ・湯走り風の飛焼など交え、鎬地の部分と棟を一面に焼く。

乱れ込み、小丸に返り、先掃きかけ、長く焼き下げて棟焼きに繋ぐ。

生ぶ、浅い刃上がり先栗尻、鑢目大筋違に二段の独特な化粧つく、目釘孔一。

説明

 立花圓龍子国秀は、中山一貫斎義弘の門人にして、圓龍子と号す。初め、天保頃には上野国安中藩(現:群馬県安中市)の板倉家の抱え工として作刀し、その頃の銘文は「上州安中住円竜子立花国秀」「橘円龍子国秀造」などと銘す。のちに、相模国鎌倉に移り、嘉永、安政、文久などの年紀作がみられ、「相州鎌倉住国秀作」「相州鎌倉住橘国秀作」などと銘す。弟子に、師:一貫斎義弘の孫で、水戸の長島義勝の子である立花円竜氏義秀がいる。師から孫の育成を任されたのは、国秀の技倆を余程に高く評価し、信頼されていたためであろうか。

 作風は、師の一貫斎義弘と同様に所謂、新々刀期にまま経眼される「肌物」と呼ばれるもので、越中則重に私淑したとおもわれる大板目に大杢を頻りに交え、地沸が厚くつき、地景が太く入った鍛えに、のたれに互の目を交えたもの、皆焼風に沸づいた相州伝がみられ、他に小乱れ出来のものなどがある。「肌物」は他工では、次郎太郎直勝、会津十一代兼定、水戸烈公などにも見受けられる。

 本作は、二尺五寸に近い新々刀期の豪壮なる体配に、地鉄は、杢を頻りに交え、刃寄りなど柾が顕著となり、地景太く繁く入り、肌目がたった所謂「肌物」風のものとなり、刃文は、浅い小のたれを主調に、互の目・小互の目・尖り刃などが入り、複雑なる乱れ刃を形成し、鎬地の一部分と棟を一面に焼いた作風を示している。佐藤寒山先生も鞘書きにおいて「此作現存尠出来亦佳」(この作現存少なく出来またよし)と賞されている。

 尚、幕末の坂本龍馬が陸奥守吉行を佩刀としていたことはあまりに有名な話であるが、他に嘉永6年、江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門し、その修行が終わる頃に注文した「相州鎌倉住国秀」「嘉永七歳八月日」の銘文のある刃長:二尺六寸六分 (80.6cm)の刀が現存している。この刀は、のちに土佐勤王党の同志、弘瀬健太の刀と交換している。余談ながら、当時の土佐藩士の間では、「土佐の長刀」とよばれる、長い刀を指すことが流行していた。

備考

佐藤寒山先生鞘書

「相州鎌倉住立花圀秀作 文久元年八月日紀有之 上州安中之人一貫斎義弘門

刃長二尺二二寸九分有之 此作現存尠出来亦佳 昭和辛亥年夏日 寒山誌(花押)」

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