堀井秀明

 

No.A00170

(附) 水交社製共箱 刀袋

白鞘  金鍍金一重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 23.0cm  (7寸5分半) 反り : 内反り

元幅 : 2.0cm 元重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

平成22年01月19日

: 北海道

時代 : 近代 昭和4年 1929年

鑑定書

 

三笠砲鋼 秀明作

昭和四年春

形状

刃文

 

帽子

平造、庵棟、身幅・重ね尋常に、わずかに内反りつき、美しい短刀姿となる。

小板目肌つみ、総体に柾となり、地沸厚くつき、地景入る。

広直刃調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、沸厚く敷き、金筋入り、砂流しかかる。

直ぐ調に焼詰め、先掃きかける。

生ぶ、先栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明

堀井秀明は、明治19年、滋賀県滋賀郡下坂本村で徳田広吉の三男として生まれ、本名を徳田兼吉という。明治34年、二代:堀井胤明門人である松田胤勝より農鍛冶を修行。明治37年、19才の時に二代:堀井胤明に入門し、鍛刀を学び、明治44年、その勤勉さを見込まれ、女婿となり、「兼明」と初銘を銘す。大正2年、刀剣保存会(羽沢文庫)より水心子正秀の「秀」の一字を贈られ「秀明」と改め、また、昭和9年、皇太子御生誕となり、「明仁親王」と命名されると「明」の字を用いることは憚り多いことと考え「俊秀」と改める。大正7年、北海道室蘭の日本製鋼所室蘭製作所・瑞泉鍛刀所に入社し、鍛刀研究に従事する。大正12年、二代:堀井胤明亡き後は、堀井家三代目として瑞泉鍛刀所を継ぎ、優れた技術と卓越した人格者であったことから一門に繁栄をもたらす。昭和17年、宮内省より元帥刀十振の製作を命ぜられ、死を賭して謹作するも完成半ばにして、翌昭和18年、58才で永眠する。法名を龍渕軒瑞泉俊禿日兼居士、墓は大津市石山寺辺町西蓮寺にある。

 明治37年8月10日、日露戦争における連合艦隊の旗艦であった戦艦「三笠」は黄海海戦で後部二連装主砲の一門を破壊された。 昭和3年より7年にかけて、当時の名工:堀井秀明とその一門が砲身の残鉄を加えた記念刀を製作し、水交社(日本海軍将校の親睦・研究団体)を通じて販売された。爾来、「三笠刀」とよばれ「皇国興廃在此一戦」の彫物が加えられたものなどがあり、東郷平八郎元帥らに贈呈された刀が著名である。

 本作は、銘文にも「三笠砲鋼」と銘された所謂「三笠刀」である。「皇国興廃在此一戦」の彫物は無いものの水交社製の当時の共箱と鬱金色の刀袋が附帯し、「三笠刀」が海軍将校用に記念として打たれたことなどが記され資料的にも貴重であり、また、当時の世情を窺い知ることができる。

 姿は、鎌倉時代の短刀を想わせる美しい姿型を呈し、地鉄は、小板目肌がつみ、総体に柾がかり砲材を使用しているためか細かい地景がよく顕れている。刃文は、広直刃調に互の目が交じり、沸が強く、刃中よく働いており、流石に当時の名人:堀井秀明の作と感嘆させられるばかりである。生ぶ刃もよく残り、研磨も約80余年前の当時のものと思われるため、多少のヒケ・小錆があるもののそのままの状態で掲載させていただいた。

備考

当時の研磨の状態のため、ヒケ・小錆がみられます。

 

水交社製共箱

「三笠砲鋼製刀剣」

「三笠砲鋼製刀剣由来 此刀剣は日露戦役の際明治三十七年八月十日黄海々戦に於て敵弾のため折損したる三笠後部十二吋左砲々身の一部を以て刀工水心子源秀明に命し記念のため海軍将校用として鍛造せしものなり佩ふる者希くはしるせよ 東京水交社」

「錆易いものですから椿油等にて時々御手入を願ます」

 

聖代刀匠位列、最高位・神品の列・最上大業物 取締役格筆頭

昭和16年新作日本刀展覧会 特別名誉席

総理大臣賞・文部大臣賞受賞

国工称号授与刀工

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