保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00155

白鞘  銀着一重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 26.6cm  (8寸8分) 反り : 内反り

元幅 : 2.7cm 元重 : 0.7cm

登録証

県教育委員会

昭和53年04月27日

: 常陸国 (茨城県-中部・東部)

時代 : 江戸時代後期 慶応二年 1866年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成20年08月22日

胤光造

慶応年八月

形状

 

刃文

 

 

帽子

平造、庵棟、身幅広く、重ね厚く、無反りにて寸延びた大振りの短刀姿となる。刃区ふかく、ハバキ元に生ぶ刃のこる。

小板目肌つみ、無地風の肌合いとなり、地沸つき、太く地景入り、淡く映りたつ。

腰開き互の目を主調に小互の目・丁子風の刃・尖りごころの刃・角張った刃など交じり、足入り、匂い本位にわずかに小沸つき、細かに砂流しかかり、焼頭に小さな飛焼を交える。。

乱れ込み小丸に返り、先掃きかける。

生ぶ、先栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明

心慶胤光は、本名を須藤栄吉と称し、天保3年4月14日に須藤粂右衛門の長男として常陸国真壁郡中館村(現在の茨城県筑西市下館)に生まれる。幕末の名工、大慶直胤の門人となり、土浦藩主:10代土屋寅直の時に長尾家(文殊包定)の名跡を継いでお抱え刀鍛冶となる。土浦藩の藩士録のひとつである「土浦分限帳」によれば、胤光は安政3年、同5年、同6年、万延元年と四度にわたり修業に出ており、明治2年には定録米二十俵であった。

土浦藩土屋家は、幕末の世上不安定な時期に直面して刀鍛冶の必要性を認識し、当時の名工として知られた大慶直胤の弟子の中から、常陸出身で23歳と年相応の胤光を嘉永7年に藩士として取り立てた。胤光は嘉永7年より土浦藩に「先手組格」として仕えた後、万延元年までの6年間を殆どを修業に費やしたと思われ、そして、万延元年7月10日をもって「格式到来方列刀剣鍛師」を申しつけられ、土浦藩に正式にお抱え刀鍛冶として認められる。しかし、明治9年、胤光が45歳の刀工としての技倆が冴えわたってきた時期に廃刀令が布告され、刀が打てなくなったことに胤光の心境が如何ばかりであったことかは想像に難くない。その後、新治郡真壁町(現在の茨城県土浦市真壁町)に移住し、野鍛冶を職業とし、その傍らで刀剣商もしていたと伝えられる。

彼の作刀期間は、確認される裏年紀のあるものには、安政2年より明治4年頃までのわずか15年間程と非常に短く、現存する作品は70振程と多くない。

本作は、大振りな迫力ある平造りに、ふくら辺の逆がかり、角張った刃などは師である大慶直胤の備前伝を想わせる。焼頭に小さな飛焼がみられ、やや黒く、いかにも焼きが固そうであり、それがさらに上部の映りに近い湯走り状のものと相まって映りを形成しているが、これも大慶直胤にもみられ「焼け映り」と称せられる。師の技法をよく踏襲した胤光の意欲作であることがわかる。

ほぼ制作時のまま現在にいたっており、刃区には生ぶ刃が残っており健全である。大慶直胤に迫る備前兼光写しの入念作といえる。胤光は作刀期間が短いため、作品は極めて少なく、特に短刀はめずらしい。

備考

新々刀 中上作。

 

古研ぎのため、全体に細かいヒケがみられます。

備後貝三原正盛1
備後貝三原正盛2
備後貝三原正盛3
備後貝三原正盛4

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