珍 品
宮本包則 帝室技芸員

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No. A00061

白鞘  銀無垢一重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 68.5cm  (2尺2寸6分) 反り : 1.8cm  (5分半)

元幅 : 2.8cm 先幅 : 1.7cm 元重 : 0.8cm 先重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

昭和40年04月01日

: 東京都

時代 :大正時代 大正6年 1917年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成18年06月28日

帝室技芸員 菅原包則 八十八作

大正六年七月十日

為神護飯野吉三郎宮中大神通力守刀

形状

 

刃文

 

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常にして、元先の幅差ややつき、反りつき、中鋒となる太刀風の姿を呈す。

小板目肌よくつみ、地沸つき、地景入り、淡く乱映り風たつ。

互の目に、尖りごころの刃・丁子風の刃・片落ち互の目など交じり、足入り、総体に逆がかり、乱れ、匂い本位に小沸細かにつき、砂流しよくかかり、焼頭に飛焼風の湯走り少しく交える。

焼深く、乱れ込み、先掃きかける。

生ぶ、先刃上がり栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一。

説明

宮本能登守包則は、天保元年8月25日、伯耆国武田村大柿(現:鳥取県-倉吉市大柿)の造り酒屋を営む旧家に生まれ、宮本志賀彦という。嘉永4年、22才で刀工を志して、備前長船横山祐包の門人となり、備前伝の鍛刀を学ぶ。安政4年、因幡藩倉吉の家老:荒尾志摩の抱工となり、さらに文久3年、京都有栖川熾仁親王の信任を得て、孝明天皇の御剣を鍛造し、慶応2年37才の時、能登守を受領した。明治19年、同郷の因幡の刀工である日置仁平兼次と共に、伊勢神宮の宝剣・鉾・鏃など多数を精鍛してその大業を果たし、さらに明治39年4月に月山貞一と共に帝室技芸員の栄職につき、専ら皇室の刀剣類を謹鍛した。「菅原包則」「宮本能登守包則」「能登守菅原包則」「帝室御刀工」「帝室技芸員菅原包則」などの作銘があり、因幡鳥取、伯耆倉吉、京都(銘は皇都と切る)、東京など、各地の地名を添えたものがあり、大正7年89才の生年切銘もあって、大正15年10月24日97才の高齢で没した。墓は当店の近く染井霊園(東京都豊島区駒込)にある。

 

この刀は、銘文にもあるように明治期の宮廷と関係があった占い師:飯野吉三郎が皇室の神護を祈祷した際に守刀としたものである。皇室に関する行事のため、帝室技芸員である宮本包則が製作しており、神事の守刀として太刀姿の造込みとなっている。

 

宮本包則は、長寿であったために作刀は比較的に多く遺されているが、その多くは短刀で長いものはあまり多くない。また、乱れた出来のものは少なく、本作は特別注文のためか、華やかに乱れており、優れた出来映えを示している貴重な一振りである。

また、歴史的にも好資料といえる。

 

※ 短刀の作風については 【 短刀:天覧 菅原包則 八十八 大正六年八月日 】 を参考ください。

<飯野吉三郎について>

 

美濃国岩村藩:武具奉行飯野益衛の子として生まれた。彼に対する世評は複雑であるが明治の元老:山県有明をはじめ児玉源太郎など当時の各界名流の信任を得て高名であった。呪術を学び新宗教を興し、隠田の行者とも呼ばれた。天下を予言し、またよく的中したとも言われ、日露戦争の勝利を予言し、祈祷によりそれを導いたことは今も多くの人々に語り継がれている。

飯野は「満洲軍の幕舎に参じ、勝利を開け」との神託を受け、岩村出身の大島健一教育総監部参謀の紹介状を持って、児玉源太郎の前で戦況を占った。奉天大会戦はお告げが大当たり。今度は東郷平八郎が飯野を訪ね、バルチック艦隊を迎え撃つ日時を占ってもらい、明治38年5月27日に日本海海戦で奇跡的大勝利を納めた。飯野に対する戦功は、月々200円が参謀本部の機密費から支給された。明治40年以降、大正にかけて隠田(渋谷区神宮前)の生き神様として先客万来であった。

 

備考

帝室技芸員

新々刀 上作

 

宮本包則 帝室技芸員
宮本包則 帝室技芸員
宮本包則 帝室技芸員